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 公式Xに富安悠(今はNEXZのユウです)の画像がポストされたので、光速で保存した。ここ半年ほどはずっとこのような調子で、暇がなくても富安悠のことを検索し、友人に「綺麗すぎる」と捲し立てるように話しては引かれている。だが、一通り話し終わった後に落ち込んでしまう。何故なら、誰かを「綺麗すぎる」とすることは、誰かを「綺麗ではない」と判断することと同義だからである。
 人の美醜は、絶対的かつ相対的な比較が混じりながら判断されているように思う。
 新宿駅すれ違いざま美しい破裂音にて「ブス」と言われぬ
                      川口慈子
 眉ひとつ引きそこないし違和感ありけふのひとひの顔、朝鏡
                     森川多佳子
 一首目は『世界はこの体一つ分』から引いた。主体は新宿駅を歩いていた時に急に暴言を吐かれる。「ブ」の破裂音から「ス」と空気の抜ける響きが美しいと言えなくもない。容姿に対する暴言である「ブス」という言葉が、人の内面に対する「バカ」などよりもダメージが大きいのは、その人のことをよく知らなくても効力を発揮するからだ。主体がどのような容姿であってもすれ違った人物が「ブス」と判断すればその評価は絶対的なものとして突き刺さってくる。二首目は「かりん」二〇二三年一一月号に掲載された歌である。角度が少し違うだけでも印象が変わってしまうくらい、眉毛は顔の中で重要なパーツだ。歌のなかにある違和感は、眉毛を引く毎日の積み重ねによって自分のなかに「理想の顔」ができあがり、「理想の顔」との比較のなかで生まれる。四句目から結句にかけての「けふのひとひの顔」には、違和感を抱えながら一日過ごすことになってしまい、少し残念な気持ちが表現されている。
 鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼は美男(びなん)におはす夏木立かな
                     與謝野晶子
 この一首は『恋衣』に収録された有名な歌である。馬場あき子『与謝野晶子論』によると、この歌は島木赤彦らから「『美男』の表現との間に俗情の醸される危さを指摘」されたとあるが、私は俗情の危うさよりも釈迦牟尼の顔を「美男」と言い切ったことに対する反発心があったと考える。釈迦牟尼の顔を美しいとすることは、釈迦牟尼ではない顔を美しくないとする可能性を含んでいるからだ。彼らには、晶子の美醜のジャッジが「釈迦牟尼ではない」顔の自分たちに向けられたように感じたのではないだろうか。
 私たちは透明ではない以上容姿があり、否応なしに美醜を判断されている。それは、どんなに綺麗に化粧をしても、どんなに自分の画像を加工してもつきまとってくる。もはや、顔をすべて覆ってしまうのが一番なのかもしれない。

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