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私たち歌人にとっての「よい書評」とは、どのようなものだろう。私自身、書評の依頼を受ける度に大いに悩む。
この問いについて、「現代短歌 No.111」に収録された第6回BR賞の選考座談会から考えてみたい。今回の結果は「該当作なし」、予選通過作品十三篇の中から三篇が審査員特別賞に選ばれた。審査員は、大松達知、添田馨、花山周子の三氏。それぞれの書評に対して活発な議論が交わされているのだが、個人的に印象に残ったのは、詩人であり文芸評論家である添田の「書評は対象となる歌集への愛情というか思いやりが根底にないとつまらないものになるし、血が通わないんですよね。」という発言だった。同様に、大松にも「これは依頼原稿ではなくて、応募の書評なので、自分の好きな本について、いかにその本に惹かれたかを書く権利があるわけですね。その熱でいうと、もっとあってもいいのかな、と思うところもあります。」という発言があり、花山周子は応募作全体に対して「どの書評も自分で選んだ歌集なのに、そんなに書くことないのかなって思いました。同じことの繰り返しで。」と手厳しく述べている。これらの発言は今回の応募作だけに向けられたものではないだろう。歌集評というものはあくまでもその一冊の、あるいは集中に収められた一首一首の魅力を読者に届けるためにある。主役は歌集である。書き手に愛情と敬意がなければ、よい評になるわけがない。
この座談会の模様を読み進めながら、私は「短歌は(俳句も)座の文芸である」という言葉を思い返していた。歌が好きな者同士が――そう、現代において条件は「歌が好きであること」だけだ――ひとつの場所に集い、互いの歌を読み、評をし合う。自分が一人で悩みながらつくった一首を持ち寄ることもあれば、その場で題詠を楽しむこともある。そのような「座」の長い歴史の中で歌も評も磨かれて、優れた作品や歌論が生み出されてきたのである。そのための場が歌会であり、短歌結社であろう。今ではSNS上での歌を通した交流も盛んだ。歌集とはそのような場で各々がつくってきた歌をまとめたものであるから、仲間が歌集を刊行すればまたそれを読み合う場が設けられる。今日すこぶる評判が悪い歌集の謹呈文化だって、そのためのものではなかったか(自費出版や謹呈の費用が大変だ、という話はここでは措く)。
はじめの問いに戻る。私たち歌人にとっての「よい書評」とは、一冊の歌集の魅力を届け、さらにその歌集について多くの読者が語り合う場が生まれる、そんな文章、だろう。よい歌集評を読みたい。そして、よい歌集評の書き手でありたい、と思う。
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