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「解像度が高い」という言葉がある。「解像度」とは本来テレビやコンピューターのディスプレイが映し出す画像や印刷物の鮮やかさ、細やかさを表すが、近年は比喩的に様々な物事を細部まで鮮明にイメージしたり、理解したりすることを表現するのにも使われる。ぼんやりとしかわからなかったものが鮮やかに理解できた時、「解像度が上がった!」と言う。今回はこの「解像度」という言葉をもとに短歌を考えてみたい。「解像度の高い歌」とは、どんな歌だろうか。
枯れ蓮はみなうつむきて三角の影を落とせり濁り水ふかく
花山多佳子『三本のやまぼふし』
野ぼたんのうす紅き蕾のひとつから覗く塗り物のやうな紫
「枯れ蓮」や「野ぼたん」が細やかに観察された自然詠である。混沌とした社会を象徴したような「濁り水」に映る「枯れ蓮」。「うつむきて」と擬人化されたことで、私たち人間の姿そのもののように立ち上がってくる。「野ぼたん」の蕾の色は、「塗り物のやうな」と喩えられたことでおそらく実物以上の光を放っている。その光は、私たちと同じ命あるものとしての生きる意志、とも読めるだろう。
ほの紅き梅のつぼみの尖割れて押し出されつつある乳のいろ
浦河奈々『硝子のあひる』
ひるがほの濃き中心をぬくぬくと出で入る虻の金色の尻
梅の「蕾」や「ひるがほ」に飛んで来た「虻」の様態を克明に観察した浦河の作品。自らの意志を越えた自然の大きな力によって、世界に「押し出され」る梅の花は、何か苦しそうだ。二首目で作者が「ぬくぬくと」という言葉を添えて虻の「尻」に着目しているのは、自分と同じ生きることへの執着を見たからではないか。「乳のいろ」「金色の尻」という言葉選びからは、植物や昆虫の生きることへの執着と共に、抗うことのできない自然に対する苦しさや葛藤も感じる。
優れた歌人が「解像度を上げて」自然を見つめるとき、そこに現れるのはスマートフォンのカメラで撮影した写真や動画をはるかに越えたものだ。植物が気の遠くなるほどゆっくりとその蕾をひらいてゆく様を、決して「倍速視聴」などしない。その色を「白」や「赤」という一色にまとめたりしない。見えないものを見、聞こえない音を聞く。手が届かないものの手触りを感じる。これらを通して、やはり自然の一部である私たち人間のありのままの姿を――美しさも、醜さも、見るのだ。そして読者を驚かせる。「解像度が上がった!」と。自然詠の魅力と可能性は、昔も今もそこにある。
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