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おとずれた転機(三)
  
 清輔亡きあと、弟の重家や季経などが兼実邸に参入し、清輔の和歌や歌書についてその正統性や有効性などを改めて進講することなどがあり、兼実も清輔を信奉する論客顕昭に歌判をさせるような場面もあったが、その心はすでに俊成を核として右大臣家の歌筵を確固としたものにしようとしていたようだ。
 思うに兼実は、清輔の歌に対する鋭い断定に説得されていた何かを、少しずつ脱却するように、人間俊成が求めていた歌の本質への謙虚な追求に、新たな魅力を感じていたにちがいない。私がこんな結語をもったのは、久保田淳氏の御高著『藤原俊成-中世和歌の先導者-』の綿密な論攷に導かれて生まれたことばである。治承二年(一一七八)右大臣家百首は三月より六月末にかけて十回にわたる披講を行ない、九月にはその作者をあらわし、俊成に加判させて世に公開して、一大歌筵を閉じたのであった。
 俊成は翌、治承三年(一一七九)十月十八日、右大臣兼実家歌合の作者及び判者となった。清輔が最後の右大臣家歌合の作者及び判者をつとめたのは安元元年(一一七六)十月十日、亡くなる前年のことで、七十二歳であった。ちなみに俊成は清輔より十歳年下である。両歌合は三年の隔りはあるが、源平騒乱に突入する寸前の歌合であり、当時の歌人が求めていた抒情性にも、判詞にも魅力を感じるので、両歌合の歌や、判詞の違いなども比べてみていきたいと思う。
 ところでこの二つの歌合に父子して参加しているのは源頼政、仲綱である。右大臣家の歌壇の常連の一人で、頼政は殊に治承二年十二月には従三位に叙され、公卿に列したことになる。右大臣家の歌会でも尊重される存在であったはずだ。鴨長明の『無名抄』の中に俊成の頼政評がある。「今の世には頼政こそいみじき上手なれ。かれだに座にあれば目のかけられて事一つせられぬと覚ゆ」と言っており、俊恵も「-会の座に連なりで歌打詠じ、よきあしき理などせられたる気色も、深く心に入りたることと見えていみじかりし。かの人のある座には、何事もはえあるやうに侍りしなり」と述べている。この頼政が、歌合に参じた翌年、以仁王を奉じて反平氏の旗を上げようとは誰も予想してはなかったであろう。