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「優」という評語(二)
  
 前号で触れたように「優」という評価語は便利な緩和剤ともなるが、本来の言葉内容としては、平安朝の美意識を基本とした親和性のある伝統美である。老年の俊成が『古来風躰抄』の中で述べた「何となく艶にもあはれにも聞こゆる」情趣を内包している表現など「優」に適うものといえるだろう。
 「優」の美の感受の中には、「艶」に加えて心の琴線に触れる純粋美が心にしみる「あはれ」も含まれるであろう。定家が唱えた「余情妖艶」や「幽玄」とも少しの距離がある平穏さをもった感覚である。
 俊成は養和元年(一一八一)、院政を再開された後白河御所にはじめて参入したが、御信任を得て寿永二年(一一八三)院宣をもって和歌の撰進を命じられた。この年は歴史的にみても大きな時代の転換期である。平家に清盛はすでになく、七月二十五日、平家は天皇と建礼門院を奉じて都を捨て西海の波に浮かんだ。三日後には木曽義仲が入京し、八月には幼い後鳥羽天皇が践祚、翌元暦元年(一一八四)義仲は義経に攻められ戦死。二月一の谷の合戦で平家は主力となりうる公達十人を失ない大敗し、屋島に退いた。しかし、ここも翌文治元年(一一八五)義経に追われ、三月ついに長門の壇ノ浦で大敗、滅亡した。
 一方、都では文治二年、兼実に内覧の宣旨が下され、九条家ははじめて氏の長者の地位についた。内覧とは摂政や太政大臣と同格のもので、政治的決定を発表前に閲覧し、意見を述べることのできる最高の権力者になったということである。俊成はまた翌々年の文治四年、『千載集』撰進の仕事を終え、後白河院に奏進、御嘉納になった。俊成は院のおすすめもあって自作を追加し、計三十六首を収めている。俊成は七十五歳であった。
 『千載集』に俊成が撰入した歌数をみると、当時俊成が尊重していた歌人がみえてきて魅力的だ。しかしそれ以上に面白い逸話が『今物語』にある。『千載集』がほぼ完成に近づいたころ、東国に向けて旅していた西行はたまたま出会った歌友に、「鴫立つ沢は入ったか」と尋ねると、「いや入ってない」という答を得て、「あれを見落すほどの撰集なら、都に上るまでもない」と東国へ向けて旅をつづけたという。俊成、実はこの歌、西行の依頼を受けたその自歌合でも「勝」の判を与えてはいなかったのである。