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俊成の拒み
  
 前号のつづきとして、西行の「鴫立つ沢」に対する俊成評を、「御裳濯河歌合」(西行の自作歌合、俊成に判を依頼)によって見てみたい。
   十八番
    左
 大方の露には何のなるならん袂におくは涙なりけり
    右
 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
    「鴫立つ沢の」といへる、心幽玄に、姿及び難し。
    左歌、「露には何の」といへる、言葉浅(あさき)に似て、
    心深し。勝ちと申(まうす)べし。
 つまり、俊成は秋の夕暮の残照の中に浮かび上がった田園風景の中の、鴫が一羽佇んでいるような草地に、一羽の鴫が物思うように佇んでいる寒々とした景を感じ取って、「心幽玄に、姿及び難し」とまで絶賛している。にもかかわらず、左歌に対して、「露には何のなるならん」の一句に深く感動して、簡単に言っているようだが、よくよく思えばこの心は実に深いと脱帽して、勝判を下した。今日的にはどうにも納得がいかないと思うであろう。
 俊成はおそらく、「露には何のなるならん」に対して、俊成なりの答えをもっていたのだ。それは神や仏という現世の諸事を救済する力をもった大きな手や心より、もっと大きな自然や、天象、気象の綾なす力の意志のようなものを思い、自然を育む恵みの露に、人智の及ばぬ心を感じていたのである。俊成は後白河院の院宣によって『千載集』を独撰する立場にあったが、今日に賞揚される「鴫立つ沢」を『千載集』にも撰入していない。あれほど絶賛した下句をもったこの歌を、二度にわたって拒否したことになる。
 もちろん、『新古今集』の若き撰者たちは「鴫立つ沢」を寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」と、定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」と並べて秋の歌の上部に載せている。
 しかし私の「なぜ」はもう少しおさまらない。俊成のこの強い拒否は、上句にあると考えるほかないからだ。「心なき身にもあはれは知られけり」はなぜ俊成の拒否をそんなにも誘ったのか。また少し考えてみよう。