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ゆつくりと狭霧ゆらげる庭なかに欲身のごと立てる月桃
二〇二一年一月「短歌研究」
 或る日、歌友が来て沖縄から大事に持ってきた月桃が立派に根づき育った話をした。スマホに撮(と)られたそれは、なるほど茎太く焦茶色の大きな葉を垂れ、小さな花房がふくらみかけていた。何度か沖縄に行った時畑の畔や道ばたに立っている月桃のたくましい美しさに魅かれることはあったが、庭に植えることまでは考えなかった。南向きの庭にこれが立っていたら初夏の陽ざしに映えてよい景観だろうな、と思い羨しかった。
 しかし沖縄には今も唱われている月桃の歌がある。「月桃ゆれて花咲けば」という甘いうたい出しは、「~六月二十三日待たず/月桃の花散りました」と結ばれ、沖縄敗戦の悲惨を思わせる花にもなっているのだった。
 友人が育てた月桃をわが庭に移したイメージで作ったのが掲出の歌。ちょうどコロナの状況がきびしく外出も控えていた頃だった。山間部なので時々霧の朝がある。岡本かの子の歌集に『欲身』という好きな一冊がある。その題名を頂いて霧につつまれた月桃のイメージとした。こんなすじみちで歌が生まれることもある。
 花の木が多い庭なので、コロナの時期にはよく庭木と対話していたし、今もそうだが、ふと思い出すと、「花咲きし木はかくれなし」という世阿弥の言葉があった。世阿弥のことだから、もちろん芸のことを言っている。ひとたび芸の花を身にもったその人は、たとてその後、不測のことに遇(あ)おうとも「花を持った人」の風体は消えないとしている。
 「黐(もち)の木はもう五〇年も庭に立ちしらん顔してその実吐き捨つ」と詠んだことがある。わが庭の木はクロガネモチ。赤い実を沢山つけ、ひよどりが集まり実を食べ尽し、青い水糞をそこら中にひり散らす。とてもいやだ。しかし黐の木は平然として初夏の小花を秘めやかに咲かせ、鳥の体を通して排泄し、一年中同じの暗い貌で立っている。この春気づくと、おやというほど幹は太り、枝葉の張りも繁りも一段と格調がついているのだった。

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