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空穂との出会い
 私は一九四七年一月、歌誌「まひる野」に入会した。十九歳だった。三月号にはじめて歌三首が載った。前後の他作と比べてみると、私の歌は古色蒼然としていて、とても現代を生きている若い人の歌ではなく、まずはそのことに驚いた。そして、歌会というものに出席することになる
 歌会ではほとんどの発言者からダメな歌として毎月批評の対象になったが、私は一向にめげず散会後の小集団のあとについてゆき、先輩の言うことを耳学問として心に留めることとしていた。その中でよく出てくるのが「空穂先生」である。幸いなことに、その名は私にとって未知の名ではなかった。父がある時期早稲田大学の出版部に勤めていたからである。
 しかも私は卒論に中世和歌を選び、その参考にもと考えて神田の古書店で見つけた窪田空穂の二著、『中世和歌研究』『近世和歌研究』を書棚にもっていた。何と昭和十八年という戦中の刊行である。さらに私が線を引きながら読んだその「藤原俊成の歌論―主として艶と幽玄と本歌取とにつきて」という論文は、終戦直後の学生が読むには少しむずかしく、しかも一二〇ページにわたる論文で、初の発表時は昭和七年(一九三二)九月九日とある。満州国建国宣言をした年で、国内にも首相や閣僚などの射殺事件などが続発し騒然とした気分の漂う年であった。そうした中で空穂が集中してかいた論文であることがわかる。
 私は空穂の歌より先に、この俊成論に出会っていたのだった。その後、昭和四十年二月から『窪田空穂論』が刊行されると、私はまず、この俊成論がどう収録されているかが気がかりで、一番にそのページを繰った。それは前作増補ではなくみごとな新論考であった。しかもこれは戦後すぐともいえる一九四六年の七、八月二か月にわたって「短歌研究」誌上に連載されていたのだった。私がまだ「まひる野」に入会する以前のことだ。私は中世歌論に対するもやもやが一気に吹き飛んだ思いとともに、これを自分のものとしてもう一度勉強したいと思いつつ、結局何もしないで今日に及んでしまった。この上なく悔しいところである。