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NHKの意識調査で天皇への「好感」「尊敬」を抱いている人の割合は、平成直前が50%、昨年は77%だったという。戦前世代が減っていくなかの増加は、平成天皇や皇后の人柄や行動への共感がもたらしたものといってよいだろう。
しかしそのことと、短歌研究一月号の特集「平成の大御歌と御歌」への批判とは全く別のことがらである。天皇のために戦えという、戦意高揚の歌への批判から始まった戦後短歌、それを支えてきた「短歌研究」という雑誌が、このような特集を持ったことは衝撃的であるのだ。
この特集について、天皇制と短歌がきれいに順接で、「屈託がなかった」と評したのは瀬戸夏子(「現代短歌」二月号「白手紙紀行」)である。「戦後短歌は終わったのかもしれない」とも述べる。
終わったというならば、一九九三年、岡井隆が歌会始選者となったときに終わっていたのだろう。その岡井を批判した歌人たちが、歌会始選者となった時にも、私は悲しく思われた。短歌が隆盛に見えながら内実が滅びそうな気配の中で、権威を利用しているように見えたからだ。
大辻隆弘は朝日新聞二月十七日の「短歌時評」で「天皇制との関係は、文化として短歌の「原罪」であると同時に「強味(つよみ)」でもある。」とし、それを見つめる「成熟した視座」が必要と書いた。曖昧な書き方だが、「短歌研究」を擁護している。特集に「成熟した視座」はあったのだろうか。いま普通に詠われている仕事や笑い、諷刺などが、勅撰和歌集の時代に卑俗とされてきたこと等を考えると、「原罪」や「強味」という言葉に違和感が残った。
ニューウエーブからの九十年代以降の短歌しか見ていず、天皇への好感があれば、「平成の大御歌と御歌」は問題もなく、おそらくどうでもいいものにみえるだろう。若い時評子たちは、この特集を完全無視するのかと思われたが、川野芽生が、「現代短歌」三月号の時評で、権力と歴史を考える中で、この特集に触れている。「元号で時代を区切るやり方には、歴史を権力者任せにする奴隷根性」があって警戒したくなるとし、瀬戸に賛意を示しながら、「お言葉」など天皇への敬語にショックを受けたと書いている。瀬戸は皮肉的に使っていたと思うが、「大御歌」が天皇、「御歌」が皇后の歌の解説に、ぎょっとしたのは、川野だけではあるまい。
瀬戸や大辻のいうように、短歌の歴史を長いスパンで見る「視座」をもつべきことには賛意を示したい。「短歌研究」は、天皇と短歌のかかわりを考えるうえで「視座」形成に役立つ、短歌史を広く深く見渡す特集をこそ、企画するべきではないのか。
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