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 自作の発表の場をネット上に作ることができ、簡単に冊子を作ることもできる時代に、結社の存在意義とはどこにあるのだろう。歌を発表する場というだけでなく、歌の優劣を判じ、その価値観を伝える場が機能していなければならないのではないか。選歌や歌会を通じて、自分の歌のかたちをそれぞれ摑み、輪郭を自覚していくという部分が結社の命ではないか。
 座の文学である短歌の妙味を詳しく書いたのは大岡信であったが、せめぎあいの波がしらで優れた文学が生まれるのは今も変わらないと思う。歌の鑑賞の仕方を学ぶというのも結社の効用であるが、歌に対する価値観を継承発展させていくことがなければ、結社は形骸化するかもしれない。
 「心の花」創刊一二〇年記念号の「座談会 現代短歌を考える」Ⅱで、斉藤齋藤が「なんか若い人たちが歌人単位でなく、一首単位で考えるようになっているんですね。歌会とかで、一首の歌を最大限よく読んであげるのが礼節だ、みたいのが広がりすぎちゃって、(下略)」とのべる中、穂村弘が「消え去った予知能力を追いかけて埠頭のさきに鍵をひろった 佐々木朔」という作品について、次のような体験を話した。
  …「これって、いいところでいいものを拾いすぎているんじゃないの」と言ったんですよね。(略)同席していた寺井龍哉君に「今は、歌会とかでは、そういう批評は無しなんですよ」と言われて。(略)基本的歌権の尊重みたいな空気が広がっていて、現にこう書かれているんだからそこには必然性があったという前提があって、歌会の批評はその上でより効果的に読みあうことなんだっていうんですよ。
 これを読むと、若い歌人の歌会は「読み」を競う場となっているようで驚く。象徴を読み解くことを楽しみ、それを阻害する穂村の意見は退けられたのだ。佐々木朔の歌が現実から実感を詠うものでないのは明白で、場や歌材の取り合わせが都合良すぎるとの批評はなおさら意味がある。
 体験から思い返せば、歌会では、発想の必然から問うような、身に痛い批判のほうが、その後の歌作に役に立つ。短所と言われたところを意識しながら、目を見張る変身を遂げる人も多い。攻撃的な物言いや、厳しい歌評で心を病む人がいるなどのことは、文学とはまた別の問題だろう。良くないと思った歌には正直な方が親切というものだ。読むとは、上手に読み解いてあげることだけなのか、そうは思えない。
 基本的歌権とは面白い言葉である。まともな批判を言ってもらえず、適当に褒められることこそ、基本的歌権が侵されていると言うべきであろう。