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霰たばしるもののふの肩おもふだに那須の篠原人孤独にす
『月華の節』昭和六十三年十二月刊
 ちょっと無骨な歌をあげてみた。もちろんこの歌の原点としては「もののふのやなみつくろふこての上に霰たばしるなすのしの原」という『金槐和歌集』の実朝の歌がある。寒い冬の朝、雨戸を開けてまっ白に霜が置いた山原の光景をみると、よくこの歌を思い出した。まだ近辺に家も少なく、大霜の霜柱を踏むとさくさくと音がしたものだ。
 歌意の中心は実朝の歌を思うと「人孤独にす」という思いになるという、ひどく単純な出来かたをした歌だ。半分以上は実朝におぶさっている。けれどいまも、私は時々この歌を作った時の実朝のことを思う。『金槐和歌集』では、「冬部」の「霰」という題詠三首の中にある。ただしこの三首は「定家所伝本」の中にはなく、貞享四年(一六八七)版本の中にあるだけである。将軍綱吉時代の版の本だ。勅撰集にも入集していない歌だが人口に膾炙している。その間の事情は調べていないが、私の好きな歌である。
 「霰」という題から空想した光景は鷹狩などの勇壮な場面かもしれないが、細緻な描写から浮かぶ映像としては一人のもののふの一人の営為の頼むものもない孤独な姿である。霰の音がかすかに聞こえてくるのもそのせいだ。それはそのまま、広大な那須野の篠原に自らを置いてみた実朝その人の孤独と重なるものだろう。『金槐和歌集』の中に、「もののふの」を枕詞とした歌はあるが、「もののふ」そのものの姿をうたった歌はこの歌しかない。「定家所伝本」にない歌が、なぜ長い時代を飛びこえて、近世に浮上してきたのかはわからないが、歌はやはり実朝の歌以外ではない格調をもっている。
 そしてこの歌は人間の置かれたそれぞれの場にある孤独な心を痛いまで感じさせずにはおかない。結局、実朝の話になってしまったが、実朝のこの歌によって、折ふしの心に思う私の孤独の姿があり、それは実朝の心への接近にもなり、那須の篠原のような現代の孤独があるということになるのであろう。