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忘れねば空の夢ともいいおかん風のゆくえに萩は打ち伏す |
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『桜花伝承』昭和五十二年刊 |
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この歌は『飛花抄』を出したあとの第一作になる。昭和四十七年十一月号「短歌」に載った「みしことのわずかに光る」二十五首の冒頭に据えられている。表題でもわかるように、六〇年安保から七〇年安保への激しい時代の推移の中で、私も私なりの人生をみつめながら、この十年余りに見てきたことに対して、まさに、若く、にがいかなしみが折ふしに反芻され、屈折しつつ「わずかに光る」と思われる日常であったのだ。
この時の「空の夢」という言葉から式子内親王の歌「ほととぎすその神山の旅枕ほの語らひし空ぞわすれぬ」を思い浮かべる人もあるだろう。作った時には意識になかったのだが、出来てから逆に、体に深くしみていたこの一首に対する答歌のような趣きで生まれていることに気づいた。この年私は「源三位頼政論」を二回にわたりかいているが、その折ふしに式子内親王への思いも深まっていたのだろう。
この歌に並んで「生きすぎしさびしさふいに湧くごとし反照の苔の上はやき雨」という歌があって、その上句に今日の私はびっくりする。まだ四十四歳の秋である。しかし「激動の昭和」とよばれた昭和時代は、戦後もなお目まぐるしい変遷は年表を追うだけでもたいへんなものだ。私はこの頃、中世を生きた思想家たちの言葉やその生に魅力を感じていた。翌年の一月から連載する予定の「発心往生論」のための影響もあったかもしれないが、それは、高僧伝ではない世捨奇譚一条のはみだし者の僧たちの物語に心を寄せた方向である。
『桜花伝承』の冒頭に置いた幽艶な情緒への憧れと、土俗的な心情への親近が入りまじりながら渦巻いていたように思えてならない。同時代作品を一、二あげてみる。
敗るるはいかなる恥ぞいつわりて蹲踞に耐えし石神(しゃくじん)のある
かの父らいずくゆきたる出国の峠首なき仏生(あ)れいつ
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