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心なし愛なし子なし人でなしなしといふこといへばさはやか |
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『飛種』一九九六年三月刊 |
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これは一九九三年「かりん」七月号に載った歌である。この年も手帳をみるとめっぽう忙しくしていたが、この歌を「かりん」で読んだ岩田が「おもしろい歌詠んだねェ」と珍しく感心してくれたのを思い出す。忙中閑のひとときにふと洩れた呟きの一首である。
「心なし」も「こころなし」とかなでかくとやわらかだ。「若紫」の巻で雀を逃がしてしまった童女の犬君(いぬき)が「例のこころなしの、かかるわざをして」などと使われている。「思いはかりのない」という意味だ。「愛なし」も「あいなし」とかく日常語のひとつ。いろいろな場で使われるが、「枕草子」の「梨の花――げに葉の色よりはじめてあいなく見ゆるを」など、「可愛げがない」の意味で使っている。「子なし」「人でなし」はそのまま。自分をこんなふうに罵倒してみると意外に気分がすっきりする。この一首だけがある時の気分として入っている。その前に入れた一首は「長からむ心もしらずよき言を尽して一夜飲むべきか 友よ」という歌で楽しげな歌。男にとって女の飲み友達なんて、こんなものだろう、という軽い気分があった。
このあと私は、面打ちの友が「蟬丸」という盲目の面を打ったから見にきてほしいというので、近江草津にその友、北川英さんを訪い、老眼で打った面を拝見した。
盲目の蟬丸の面手にとればまなこ薄らにひらきてゐたり
蟬丸は見ざりしか見えざりしかと問ふ人もなし知る人もなし
三日月型に閉ぢたる目(まみ)の美しく見ぬゆゑに識(し)るうすきほほゑみ
「百人一首」に歌をとどめている蟬丸は逢坂山に住んでいた。今も逢坂山には坂の上中下に三つの蟬丸神社があり、坂の神である。蟬丸の盲目の面の目は三日月型に彫られており、能面の中では最もよく見える面であるのも面白い。
※( )は直前の語句のルビ
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